ひとのをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれど、子の罪ゆるさるる事あり、されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみちびく身とぞ・なられて候らん(光日房御書 931㌻)


(通解)
人の親は悪人であっても、子が善人であれば、親の罪が許されることもあります。また子が悪人であっても親が善人であれば、子の罪が許されることもあるのです。ですから、故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏(ご本尊)の御宝前で昼夜になげき、追善供養すれば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがありましょうか。ましては弥四郎殿は生前は法華経(ご本尊)を信じていたのですから、苦しみの境界へおちるどころか、親を成仏へと導く身となられていることでしょう。

今日は父の誕生日。
父・母を思うと言葉にならない思いがこみ上げる。


自分の使命を深く感じる。
まだ道の途中。
一歩、一歩、強くなれ。