長女はもう5歳。相変わらず繊細というか、神経質で…空好き。
誰に似たのかしら…


半年ほど前から質問攻めの日々。
「ねえ…地球の中には何が入っているの?」
「そうねー、“やさしい気持ち”がはいってるかもね」
「ねえ…おさまって触ったら壊れちゃうの?」
「どうかなあ…マシュマロみたいに柔らかくてふわふわしてるかもよ」
「宇宙の先には何があるの・・・?」
「何があるかのかねえ、ロケットに乗って大きくなったら見にいきたいね」


なんとか切り返す日々。娘は時折話していると像上の人物が出てきくるほど夢見がちな女の子。
このを生かしてあげたい。

教えて!!Mr.アインシュタイン

教えて!!Mr.アインシュタイン


高校時代から物理はさっぱりわからなかった。
公式を示されても「?」「?」
たぶん脳がアナログで古典的なんだとう。
本当にわけがわからなくなる。そもそもなぜ記号を使った数式で表現されるのかが飲み込めない。物事の存在、動きなどをなぜ記号で表せるの??と幼児レベル。
数学も手だったし、まったく理数系に疎い。




それなのに、それだからか、惹かれるアンシュタイン。その人に。
この本は脚本家が小説仕立てに書いた「読む映画」。
彼が選ぶ言葉、、演出が私と相がよいのかすいすい読めた。
ファンタジックで、わかりやすく相対理論が語られていた。
ニュートンの「万有引力」の理論とのやりとりもおもしろい。
読んでみてじたのは、
なんだか、この現実って夢のよう。
常識とか、秩序とか、世界を彩る色や模様にえてくる。
それは流動的なイメージ。


やっぱりいつも食いついてしまうのは時間の概
昔、大失恋を経験したとき別れてからだいぶ時間を経たとったのに、(3ヵくらい・ワンシーズンですね)まだ1週間しか経ってないという現実に本当に驚いたことがある。私は7日間で3かほどの時間を体していた。不議な経験だった。
彼を愛しすぎて頭がとうとうやられたんだろう・・・とあの時はったけれどそれだけじゃなかったのね。
大人になって歳をとるのはあっという間にじるという覚もきっと関係あるね。


読んでいくうちに
視点が変わる。宇宙までいが馳せる。

「その言葉にはいつも注してください。単純な質問はありません。単純に見えるときに限って恐ろしく複雑な問題だったりするのです」
「単純なものにはいつも用しないと。とくに見かけが単純なものには。さっき言ったでしょう。ただ・・・」
「ただ何ですか」
「単純なものにはをそそるのですよ。私にも覚えがあります。わたしにとっては実はそれが一番大きな誘惑、一番の願望なのです。混沌として見えるものに単純な解読法を適用するのは・・・・・・」

像力なしで行く道はむなしい。それではただのルーチンワーク、くりかえしにすぎない。無知からでて別の無知にたどり着くだけだ。知るとは創り出すということなのだ。さもないと古い轍の上で足踏みすることになる。にっちもさっちもいかなくなり、すでにづけられたものに別のを与え森の中を進んでいるようにいながらじつは木しか見ていないことになる。

遅かれ早かれ自分の考えの死、少なくとも部分的な死を受け入れなければならない。特殊相対理論も一般相対理論も、量子力学も、場の理論も、いずれは死んだ考えの大倉庫に放り込まれるのだ。といっても完全に死んでしまうわけではない。偉大な考えは決して死なないものだ。時代の像力から生まれたものや、卓越した精神 ―いわば天才―が見抜いたものは、必ず何かが残っていく。

人生、最後の最後まで戦いきった人は美しい。歳の風化作用も、そのような人物には及ばない。いやむしろ、日がたつほど、その存在は一段と大きく光っていくものだ。(女に贈ることば 125日)


10の上旬地区のおかあさんが亡くなられた。
亡くなる直前まで男子部を病床からメールを送り励ましていた。胃がんのため、何も口にすることがずっとできなくて最期にモンブランが食べたいと言ってうれしそうに食べていたそう。


私を育ててくれた祖母も胃がんでなくなった。記憶が重なった。
祖母は最期に黒砂糖が食べたいと言っていた。医師からは固く禁止され、父も兄もそれを守っていたけれど、ある日私はこっそり一欠けらの黒砂糖を食べさせた。
その行為が死期を早くさせたと言われたこともあったが、今も後悔はしていない。
その時の祖母の嬉しそうで安していた顔が忘れられない。
「やっぱり、やすよだった」と祖母の最後の言葉も。
けんかばかりしていたのにね。



地区のお母さんは、創価の母だった。地域の母だった。
内外問わず、人気だった。明るくて、気さくで、気配りができて、食べ物をよくふるまって…
晴れた日に偶然会うと「今日は先生が八王子にこられているから気持ちのいい晴れなのよ」
と笑って話す。すぐに先生の話をする。
本当に先生が好きなんだなあってうくらい嫌みなく、さわやかに話す。


お通夜の日、部屋に入ると創価大学をバックに満面の笑みの大きな写真が迎えてくれた
私はその写真が脳裏に焼き付いて離れない。
一流の芸術作品を見たときのような衝撃だった。


ねぇ本当の美しさって・・・
限りある命を悟り精一杯、創価の母として燃やし続けた地区のおかあさんほど美しい人はいない。
そうった。


「太陽」だった。


だもの。
私も美しく生きたい。

(略)ひるがえって、創価学会会館末法混濁の世に日蓮大聖人の法を流布しゆく電源地であります。地涌の友が、この人間革命の会館会館へとつどい活力を得て、再び民衆の中に散っていく往復作の中に本格的な広布第二章の大波が形成されていくことでしょう。ゆえに法上に重要な義をもち、広布の生命線のひとつといえる会館を守る皆さんは最高に尊い使命の人々なのです。陰の戦いゆえ、人知れぬ労もあるでしょう。人はエンジンやスクリューみない。だが学会はそのような人を最も大切にしていきますし、それが私の信条であります。大聖人に直結し宇宙の大生命と感応する創価学会の法会館を守る皆さんが功徳の陽光に包まれ、厳然と守られていかないわけが
断じてありません。
最後に私は「会館を守る会」の三つのモットーを掲げておきたい。それは
1.会館と共に福運のある人生
2.同志と共に成長
3.地域の人々に友好
の三つです。
どうかくれぐれも健康に留されて尊い役目を義務ではなく、幸福への権利と自覚してください。会館の運営は、一切、皆さんを信頼し、おまかせします。私も会館で指揮をとります。今後も万事よろしくお願いします。


昭和52年211日     池田大作
                     (守る会へのメッセージ)


52年は私の生まれた年。
会館で指揮をとります」との言葉がとても重い。



今期から私は守る会デビューを果たしました。
守る会は
密かに憧れていました。
2年ほど前(パニック療養中)必死こらえて同時放映に見に行った際、
混雑した会館の隅でなぜか障子の桟に目がいき、ホコリひとつない清潔さに動したのがきっかけ。
これは、すばらしいとった。
元気になったらいつか私も掃除したいなとっていました。
この気持は誰にも語ってなかったのに、
お話をいただいた時は、やっぱり一念の力って本当にすごいってじた。


私は家事の中でも掃除が得。というより、先に体が反応してしまうくらい整理整頓好き。
本当の味で天職だわ。
学会活動という識がないほど体になじんでます。
次回が楽しみ。休館日が待ち遠しいわ。


会館掃除が終わったあとの新鮮で、すがすがしい空気を一番に肌でじられる私たちは本当に幸せ。
もきれいになったような気持ち。

久し振りの更新です。
せっかく訪問してくださったのに放置プレイしていました。ごめんなさい。
気持ちを入れ替えてまた色々と綴っていこうといます。
これからも、よろしくお願いします。


今年もあと一か余り・・・
私にとって変化と激動の一年だった。

 
春からスクールに通い、技術と資格取得の為、子供が寝た後、練習を重ねています。
目標は来年中にさらに技術を磨いて就職を勝ち取ります。
学費捻出のため、コンビニでアルバイトを続けています。もちろん職場でも信頼を積んでいきます。



今までは、外部友人といえば、ママ友達がほとんど。もちろん内部では婦人部中でしたが、
今年は異世代の交流が多く本当に世界が広がった。
学生・高校生・働き盛りの独身女・独身男など・・・
私を受けいれてくれた温かい新しい友人に謝します。
もちろんなかなか会えない私を見守って、サポートしてくれた旧友にもありがとう。


今年は読書量も多かった。本棚を追加しました。(ううッ部屋を圧迫・・・)
購入したものでも80冊を超え・・・(ううッ家計を圧迫・・・)
金欠の時には図書館で家族分のカードで私が読む本を一回につき24冊。
それを隔週借りて・・・だいぶ読みました。
少しは教養が深まったかしら・・・


どちらかというと表だって発散するというよりは、吸収するという一面が大きかった。
ということは、遅かれ早かれ爆発したりして。
楽しみ。

経済は感情で動く : はじめての行動経済学

経済は感情で動く : はじめての行動経済学


「分かっちゃいるけど、やめられない・・・」


近頃、(・・・いやもともと?)とても情的な(覚的な)私の理の部分を刺激してくれた一冊。
ハッとさせられたことが多い一冊。
数多くの選択問題が出て、金銭的選択に情がどう影響するか
自分も参加しながら検証されていく。
経済の本というより、分りやすい理学の本。


気づいたことは、私は情がい切りすぎて・・・
ラッキーだった。
人生もラッキー。


つまり私たちは、見たいものだけをみているわけだ。いやなものをどうしても見なければなら
ないときには、見方ををいくらか変えてしまう。調査によると、強い先入観をもった人は、是と非の両方を混ぜて一つにしたものを見せられると、そのあとは、もとからあった先入観をいっそう強めるという。それは自分に合わないものを全く無視するからではなく、それらを軽んじ疎んじるためのもっともな理由をやっきになって捜すからなのだ。
実験哲学者の祖フランシス・ベーコンはそのことをよく得ていて、自分の本によくよく注せよと言い、「自分の経験を否認するものより是認するもののほうを喜ぶのは人智の決定的な誤りである」という言葉を残している。

脳における志決定はいつどのように行われるのか。このことに貴重な示唆を与えるのがベンジャミン・リベットの実験。私たちはふつう、「識してから行動に移す」とっているが、実は「識する」0.35秒前に脳はすでに活動を開始している。「脳活動→志→行動」の順だというのだ。この結果、「志」とわれるものが、どのようにつくられるのかが問題として浮上してきたのである。

「理vs情」という対立図式でとらえるのではなく、「情は理を支える不可欠なパートナー」であり、「知識だけでは正しいことをするには足りない」という本章の主張をかみしめよう。「理情を御す」のではなく、両者をうまくかみ合わせることができるかどうかは、あなた次第である。


よい本は、リンクするね。
広がって、確認して、深める。

代表的日本人 (岩波文庫)

代表的日本人 (岩波文庫)

度々、スピーチに出てくるこの本。
下の子を妊娠中に読んでいたのだけれど、内容を少し忘れていたみたい。
先日のグラフSGIで紹介されていた上杉鷹山についても書かれていた。


彼の師、細井〔平州〕が繰り返し聞かせた話。

大藩紀州の藩主徳川頼宣は、言いつけを聞かなかったために、その膝をきつくつねられたことがある。そのときできた膝のあざをそうっと眺めるのが常であった。「これは尊氏が私に残した警告である。これを見るたびに、自分を省みて自己と民に誠実であるかと問う戒めとしている。
しかし、残ながら、あざは年を取るごとに色うすれ、それにしたがい私の慎みも薄れている」


孫娘に宛てた手紙


人は、三つの義を受けて育つ。親と師と君である。
それぞれの義はきわまりないが、とりわけ他にまさるは親のである。
この世に生をうけたのは親のによる。この身体が親の一部であることを決して忘れるてはならない。親につかえるときには、偽りのないでふるまうようにせよ。、もし、あやまちを犯しても、真さあるならば大きなあやまちではない。知恵不足のためにできないとはうな(その不足は真がおぎなう)
領内を治めることは、とても及ばぬように考えるかもしれない。しかし、領内を治めるもとは、よく整った家にあるとうがよい。よく整った家は、妻の夫に対する関係がきちんとしなくては成り立たない。水源が濁っている川からどうしてきれいな流れを期待できようか!・・・
若い女である以上、着物のことにがとらわれやすいのは当然である。しかし、教えられた倹約の習慣を忘れるではない。養蚕をはじめ女の仕事に励み、同じに和歌や歌書に接してを磨くがよい。文化や教養は、それだけを目的にしてはならない。すべての学問の目的は徳を修めることに通じている。そのため、善を勧め悪を避けるような学問を選ぶがよい。和歌はを慰めるものだ。それによりや花が人のの糧となり情操を高める。


春を得て花すり衣重ぬとも
    我がふる里の寒さ忘るな
(春が訪れ、花の衣装を身にまとう時節となっても、山里の父の家で過ごした冬をわすれるなよ)


上杉鷹山は、華やかな印象で語られることはないけれど、
すごい人だ。
かっこいい。