都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといえども心性を観ぜれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如き人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、ここをもって止観には雖学仏教・還同外見と釈せり(一生成仏抄 383㌻)


(通解)
あらゆる仏教の教えも、そしてそこに説かれるすべての仏や菩薩も、自分の生命のほかにある特別なものであるとは、けっして考えてはなりません。そうであるから、いくら仏教を習うといっても、自分の生命に仏界がそなわっていることを信じなければ、生老病死という人生の苦悩からのがれることはできません。もし、自分の生命の外のところで、苦悩からはなれる道をもとめてあらゆる修行やよいことを行ったとしても、それは貧しい人が、一日中、隣の家の財産を勘定しても、半銭のもうけにもならないのと同じで、価値のないことなのです。そのことを妙楽大師が「止観輔行伝弘決」のなかで「もし生命を観じてその根本を悟らなければ、過去世からの重い罪を消すことはできない」といって自分の生命を観じてその根本を悟らなければ、その修行はかえって大きな苦しみとなることを教えています。だからこのような人は、自分では仏法を学んでるつもりでも、じっさいには外道を学んでいることになると、恥ずかしいこととされているのです。それゆえに天台大師は「摩訶止観」のなかで「仏教を学ぶといっても、かえって外道の考え方におちている」といっているのです。


価値のないことはしたくない。
時間には限りがあるからね。
いらんところで大事な時間やエネルギーを使いたくない。


悔しいことや、「え???」ってこともあるけれど、
心のどこかで、
人や、今の環境に頼ったり、甘えたりしている弱さに打ち勝ちたい。


何のため?
をいつも胸に。