妻の欲求不満を夫にぶつけるな

主婦にとって卑近なところといえば、家庭です。現代に身を処する以上、さまざまな欲求不満が家庭の主婦たちにあるのは当然です。だからといって、それを一家の主を目標としてぶつけて気をを晴らすなどということは、およそ見当が狂ったことになりかねないでしょう。
あなたが欲求不満である以上に、社会情勢の前代未聞といってよい数々の抑圧に押しつぶされて、追い詰められた亭主族は、不満をぶつける目標すらなくて、無力なわが身を苛みながら、やっとのことで家庭の妻や子を守ることに懸命になっているのです。いくら懸命になっても、はたして目的が達せられるかどうかを不安に思いながら懸命になっています。現代に「男らしさ」というものがあるとしたら、じつはこんなところに追い詰められて、なお戦っている姿にしか、「男らしさ」が実在しないのではないかとさえ思います。いじらしいばかりの男らしさです。

妻の思いやりと夫の蘇生

このような一切の重圧のなかで、ともかくそれを防御し、なんとか血路をひらこうと最先端に立たざるをえなくなったのが、この亭主族ではないでしょうか。ぐうたらであろうと、なんであろうと、絶望的な終末感のなかから奮い立とうとし、いま出発点に立っているのです。このような男こそ、現代の「男の中の男」と言わなくてはなりません。
家庭がさまざまな、社会崩壊化の重圧に押し流されて、同じく崩れてしまうとしたら、この世の中の男という男は住む場所も、寝る場所も失ってしまうことになります。社会、社会といっても、つまるところ無数の家庭の集積にすぎません。家庭が崩壊しなければ、社会も崩壊しないでしょう。
(略)
夫たるものの責任を責める前に、このような時代環境と対決を余儀なくされつつ、努力を傾けている亭主族を思いやることができれば、家庭の風波というのは、よほど穏やかであるにちがいありません。
そして夫にとって、この対決の最大の味方、百万の味方は、言うまでもなく世の妻たち子たちをおいて他にはありません。
(略)
夫に対して深く思いやるというのは妻の単なる従順さではありません。生命の尊厳を生活の基盤におくかどうかの、実践の所作であるといえましょう。強力なありがたい味方をもつ夫たちは、雄雄しく立ち上がって日常の対決の場で戦うでありましょう。このとき、妻の心に描いていた「男の中の男」の理想的映像を妻はくっきりと目にすることができるに違いありません。それは同時に男の蘇生を意味します。
(1974・1月「主婦と生活」掲載)

3年前、香峯子抄を読んだとき、ため息がでた。
あまりにもすばらしい奥様で。そして自分を恥じた(でも一瞬だけ?)
また、「相手が先生だからこそできるのよ、」とのあきらめ的な感想も聞いた。


今は、なんか違うよ。
私、ちょっとだけ、少しずつ変わってきているような気がする。