そして、この度の名誉学術称号200のご受賞という世界に冠たる前人未踏の偉業をもって、世界の未来の弟子までも守っていただいたのである。(聖教新聞2面・秋谷会長)


自分の浅さを実感した・・・
ただ、うれしいとか、先生はすごいとか、その程度だった。
本当に私はまだまだ浅い・・・
また先生がまたも守ってくれたことに対して、当たり前のように、自分はぬくぬくしている。
何もしていない。
報恩感謝というが、私には全くもってその姿勢が、一念がなかった!
日々の生活に追われているだけ。
日々の活動もどこか惰性。

私は自分に落胆する。

しかし、卑下してばかりもいられない。
こんな自分だけど
ここから出発だ。
少しでも成長するために
もう一度、
何度でも、
前に進もう。
勇気をだして!
がんばれ。







(3日付・3面)
また、先生の講義をずる休みした幹部に対しては、
「わかっていると思ったら大間違いだよ。
 聞くたびに境涯がひらけるのだ」
と厳しく叱咤しておられた。

「大聖人の哲学は深い。これでよいというときはない。
 途中で慢心を起こしたら退転だ」

「大作は一を聞いて百を知る。お前たちは何十ぺん聞いても
 わからない。格段の差だ」

先生の指導もそうだ。この新聞だってそうだ。
結局、それぞれの境涯で受け止めているんだ。
過去に聞いていたはずの指導も、
御書の一節も、今になって胸に迫ってきたりするときがある。
例えば今日の2面の秋谷会長の記事。
自分の浅ましさを痛感した。
まだ、自分は師弟は語れない。